トルコ旅行のフィナ−レは、ボスフオラス海狭のサンセットクル−ジング。
船上から両サイドのイスタンブ-ル街並みを飽くことなく眺め、沈んで行く夕陽がホスポラス海峡を、マルマラ海面を
きらきら照らし始める頃、高台に点在する巨大なモスクが、ミナレットが、スポットライトをあび浮き上がる様は幻想的だ。
思いで残る、素晴らしい旅のエンドに相応しいクル−ジングとなった。

野外劇場

オスマン帝国の栄華を伝える     ブル−モスク

−あとがき−

トルコ国土は日本の2倍 の面積(オスマントルコ時代には隣国を征服し54)、アジアとヨ−ロッパを結ぶ地にあり
90
%が地震発生地であるが、豊かな自然に恵まれた、又、とても親日的な国である。

紀元前7000年頃、既に原始的な農耕社会が築かれ、長い歴史の間に、多くの民族の侵入攻防が繰り返えされた。
その為か、世界遺産9か所、又、トルコ各地に歴史的遺産があちこちに点在している。

1923年、オスマントルコ終焉と同時に、トルコ共和国が誕生。亡国の憂き目にあったトルコの救世主
アタチュルク初代大統領は、西欧諸国に負けない近代国家を目指し、数々の偉業を残している。
又、明治天皇を崇拝し、自室には天皇の肖像画も飾られていたと言う。

時は遡り、1890年(明治23年)9月、オスマン帝国軍艦エルトウ-ルル号が、天皇に親書を届け、帰途、
紀伊半島沖で台風に遭遇し座礁。587名もの船員が亡くなると言う大惨事が起きた。
当時、村人たちは台風シ−ズン故、漁にも出られず自分たちの食べ物にもこと欠くなか、大島村に流れ着いた被災者に
衣類・食べ物などの献身的な救助活動を始めた。遺族にはカンパも集め、生存者69名無事トルコに送り届けたと言う。
今、その地和歌山に、串本・大島にはトルコ記念館がある。

遥か10000Km、遠く離れた日本⇔トルコの繋がりは、既にオスマントルコ時代に、日本では明治時代に始まっていた。
そして、それは「95年前の恩返し」へと、繋がって行く。

もう30年近い前の事になる。1985年、イラン・イラク戦争の最中、テヘランに取り残された日本人を、トルコ航空の
飛行機が救出してくれたニュ−スの映像は、私の記憶にも残っている。

時の、イラク大統領は、“319日午後2時”をタイムリミットとし、以後上空を飛ぶ飛行機は全て討ち落とすと宣告。
次々自国へ帰る人々を尻目に、テヘランに取り残された215名の日本人は、タイムリミット寸前に危うく救出された。

テヘランでの、トルコ航空による劇的な救出劇に、時の大統領は「トルコ人なら誰でも、エルトウ-ルル号の遭難時に
受けた恩義を知っている。」、「95年前の恩返しです。」と、語ったと言う。

余談だが、ホスポラス海峡に架かる橋や、海底トンネルの工事など施工中の企業名に、日本企業の名前が目についた。
旅先の国々で、車・電化製品や、特に大きな工事などに日本の企業名を見ると、誇らしく且つ嬉しく思う。
真偽は定かではないが、これらの国家的なトルコの大事業は、必ずしも日本企業が最安値入札ではなかったとか。
日本人・日本企業への信頼性が高く評価され、又、議会で反対する人もいなかった結果決まったらしい。



3月に発生した地震・津波・更に原発問題で揺れている最中、私達の旅の途中にもトルコで地震が発生した。
しかしながら、国土の90%が地震発生地と言うトルコには、地震を考慮してか原子力発電所は一基もないそうだ。
火力・地熱発電が主で、又、何処でも、家の屋根・ビルの屋上に、ソ−ラシステムが備え付けられているのが目に付いた。


ソ−ラ発電のある屋根は、今、原発事故問題を多々抱えている私達には、心和む、ほっとさせてくれる光景だ。
目先の事にとらわれ、四季折々の恵まれた自然、あり余る便利さに慣れきった私達への、無言の警鐘にさえ思えた。

トルコの国は遠くて近い。そして、ヨ−ロッパとアジアに跨り、様々な文明の遺産・遺跡を持つ途轍もなく古い歴史の国
今回の旅で、念願のカッパドキアで始めて乗った気球。数百万年前から、火山の噴火により形成された奇岩群の上空を
雄大な大自然の中の空中散歩は、思いで残る歴史学びの旅となった。

いつかまた東トルコ方面へも、4回目の旅もして見たくなる、そんな「不思議の国・トルコ」だと思う。

アンカラは、1923年ケマル・アタチュルクにより首都に定められた。長い歴史を経て、ローマ帝国の支配下で街は栄え
現在は近代的な街並みの中に、ロ−マ時代の遺構が点在している。

アナトリア文明博物館には、旧石器時代〜ビザンチン帝国時代の、アナトリア地方が歩んできた歴史の展示物が並ぶ。
博物館は現在修復中で、一部展示物が見られず残念だった。

7.ネプシェヒル(240km)〜ハットウシャ(210km)〜アンカラ・・・1泊

ハットウシャシュには、紀元前18世紀頃、ヒッタイト帝国の首都が置かれていた。城塞には紀元前13世紀に
建てられたヒッタイト帝国の宮殿跡があり、王国の繁栄を語る数々の遺跡が残っている。

ヒッタイトの野外神殿であるヤズルカヤ(=碑文のある岩場)には、ヒッタイト帝国の神々が祀つられ
岩壁に刻まれた12神の行列のレリ−フは(顔は立体的に描く技法がなく皆横向き)1年/12月の発祥でもある。

行進する神々、祭儀の様子などの数々のレリ−フが無造作に並び、3〜4000年もの長きに、ここに鎮座していたかと思うと、感慨深かった。現在、ハットウシュ(ボアズカレ)の村は、古の繁栄は全く感じられない長閑な村だ。

カッパドキア着後、ロ−ズバレ−で18時のサンセット鑑賞。小高い丘にあるロ−ズバレ-から、雄大に広がる奇岩群や
メレディスの山々を夕日が照らし、素晴らしい眺望を堪能した。落日した途端に、風も吹き、寒さも急に厳しくなった。

カッパドキア(標高1,200)は、地震多発国のトルコの中で唯一地震がない地方。
近隣のハサン山(3、260m)メレディス(2890m)トルコの富士山とも呼ばれるカイゼル(3,916m)
これら3つの山々が噴火を繰り返し、度重なる噴火で浮き上がり形成され奇岩の街である。

翌日早朝寒い中、気球乗り場へ向かい始めての気球体験。ギョレメ野外博物館上空を、カッパドキア地方の奇岩群を
見下ろしながら、1時間20分の夢飛行を心ゆくまで楽しんだ。

隊商宿

.アンタルヤ(325km)〜コンヤ(230km)〜カッパドキア地方〜ネプシュヒル…2

コンヤはイスラム神秘主義のメッカ。メヴィラ−ナ博物館は、神秘的な舞で知られる教団の元本拠地でもある。

国民の998%がイスラム教徒であり、重要な聖地で、それ故トルコ各地から多くの人が訪れる。

トルコのリゾ−ト地でもあるアンタルヤは、ベルガモの王により紀元前2世紀に街の基礎は築かれた。
様々な時代の建造物が残り、長い歴史を物語る街並みが現存する。

 聖ニコラス教会  サンタクロ−ス銅像

5.バムッカレ(290km)〜ミュラ−〜ケコワ(120km)〜アンタルヤ…2泊

バムッカレから、タ−ル山脈・峠を超え地中海へ向かう。途中、ロ−マ・ギリシャ時代の街ミュラ−へ。
ミュラ−(=女神に捧げられた街)では、岩肌をくり抜いて造られた岩窟墓群、サンタクロ−ス伝説の元になった
聖ニコラス教会を観光。10世紀に建てられた教会も残存する。

ベルガモ アクロポリス全貌

3、アイワルク〜ベルガマ(60km)〜クシャダス(205km)へ・・・1泊

 ベルガマはヘレニズム時代からロ−マ時代にかけて栄えたベルガモン王国の遺跡が残る街。 
ベルガモ王国のアクロポリス(=高い街〉には、ロ−プエイで上る。

紀元3世紀初め建造のベルガマ最古のアテナ神殿、
1万人収容の劇場(ロ−マ時代に改築)、
図書館には20万冊の羊皮紙に手書きされた書物が収蔵。
エジプトのアレクサンドリアに次ぐ第二の規模を誇っていた。
羊皮紙を使う前は、エジプトからパピルスを輸入していたが、ベルガモン図書館が学問の中心地として栄え始め、
アレクサンドリア図書館を凌ぐようになると、パピルスの輸出は禁止された。
そこでパピルスの代用品として発明された羊皮紙は、パピルスより書物には優れていたようだ。

現在は博物館として  公開されているアヤソフィア

- はじめに-                                                          

トルコ旅行は三度目になる。
旅の始め、現地ガイドさんから「3回目?何故?」と、問われ改めて考えてみた。理由として強いて挙げるならば
1
回目は、カッパドキアのキノコのような奇岩が、雪を被り見えなかった。

2回目、カッパドキア滞在僅か4時間。又早朝出発、夜遅い到着と、慌ただしい旅の思い出しか残っておらず
もう一度、ゆっくりと旅してみたかった位だろう。

しかし、今回の旅で、改めて、遥か1万キロも遠く離れた日本⇔トルコの歴史的な繋がりや、昭和30年代に
日本で歌われた「ウスクダラ」「ムスタファン」などがトルコと関わりあると知り、また、いろいろな文明を持つトルコの
歴史を垣間見る事が出来、旅の記録を記すことにした。

山⇒谷に下る途中
出会ったサッカ合宿中の高校生

アジアサイドヨ−ロッパサイドのある       イスタンブ−ルの街

アタチュルク廟は、オスマン帝国終焉後誕生した、トルコ共和国建国の父、初代大統領のケマル・アタチュルクの霊廟。

1944年から9年かかり完成した廟は、1029日のトルコ建国記念日も近く、大勢の人達が列をなし訪れていた。

アタチュルク初代大統領は、数々の偉業を残し、今なお、国民から建国の父として讃えられ、敬われている。

完全な政教分離(国民の99,8%はイスラム教徒)  ヨ−ロッパ諸国の憲法を手本とした新憲法を発布

男性のトルコ帽・女性のチャドル着用禁止      イスラム裁判廃止し、イタリア刑法を取り入れる

一夫多妻制禁止。                   義務教育制度、婦人参政権・西洋暦の取り入れなど

また、アラビア文字の代わりにアルファベットを導入。現在トルコで使用されている、29のアルフアベットは、
学者たちが数
年がかりでも完成できなかった言語の移行を、大統領は僅か2昼夜で考案したと言う。

 

図書館

リゾ−ト地にあるホテル   

国旗を手にする人も多いが
車の間で、国旗を売っている人には!!

旅の行程

 

ソ−ラシステムが備わった屋根の風景

トルコてんこもりの旅

白衣の天使ナイチンゲ−ル

ガラタ塔から
イスタンブ-ルの街を
眺む

何処から運ばれた?
  大きなトルコ石

2000年前から建つ城塞

地中海に面するリゾ−ト地

10世紀に建てられた教会

4クシャダス(20km)〜エフェソス(185km)〜 バムッカレ…1泊

クシャダスはエ−ゲ海屈指のリゾ−ト地。
海辺の直ぐ傍に建つ高級ホテルには、屋内運動施設・プ−ルもあったが、太陽の下での屋外はまだしも、
屋内プールの水は冷たく、とても泳げたものではない。海辺もひっそりとし、リゾ−ト地はこれから閑散期を迎えるようだ。

ロ−プエイ終点に並ぶ
土産物・果物やさん

イスラム教
   &キリスト教


両要素がみれられる
 
アヤソフィア内部

9、イスタンブ-ル観光

 トプカプ宮殿の混雑ぶりには驚いた。特に人気の宝物館は、先ず、庭園からの入館が凄い行列。又、入館後は、
各展示室を再びぞろぞろ歩く。かの宝剣「トプカプの短剣」は遥か彼方からしかみる事が出来なかった。
以前来た時は、こんな混雑はなかったと思う。

今回のツア−の目玉として、トルコの軍事施設の中にある、ナイチンゲ−ル博物館見学があった。
博物館は、軍事施設の中にある為、入館は予めパスポ−トを提出し、カメラ・携帯等の荷物は全て持ち込み禁止。
クリミア戦争で、敵味方なく看病したナイチンゲ−ルは、看護婦の地位を高め、真夜中でもランプを灯し見回りした事から
「ランプの女王」とも呼ばれた。当時、彼女の映像が故国に送られ、その映像により英国で急速に写真機が普及したようだ。

博物館には、治療施設、医療器具、ベットなどが当時のまま再現され、陳列されていた。
軍事施設のガイドは、アメリカ留学中の25歳のアクタ−。現在帰国し兵役中で、英語でガイドしてくれた。
ナイチンゲ−ルに関する逸話は興味深かった。彼女は、クリミア戦争の負傷兵を、敵味方なく看護したとされるが
/5は英軍兵の看護、1/5がトルコ軍。それもトルコ人負傷者には、野外の寒空の中での手当だったようだ。
又、トルコへ看護の勉強に来たのは、一部に英軍の恋人を追ってきたという説もあるらしく、
今尚、日本でも、白衣の天使として崇められている彼女の一側面を、女性らしい逸話が微笑ましかった。

洞窟ホテルにて

ケコワは2000年前、地震で沈没した海中都市。海底や岩山に残るロ−マ時代の城壁跡・遺跡巡りの
クル−ジングは、
生憎くもり空で、土砂降りの大雨にも見舞われ残念だった。
現在、遺跡の岩間・隙間に建てられた家々は、オランダ、
ドイツ等からリタイアした人達の住まいと言う。

平凡な丘にあるアクアポリス遺跡

   エ−ゲ海
サンライズ・サンセット

青空!!気球のり 夢飛行

キノコ岩&気球!!

−長い歴史を持つ街−

ロ−マ時代に作られた港街

オスマントルコ時代と現代の
ミックスした家が並ぶ
 

バムッカレは、長い年月をかけ石灰水が流れ落ち、作り上げられた石灰棚・温泉の街。
紀元前190年頃に築かれた
古代都市、エラポリスの広大な遺構があり、ロ−マ時代の劇場・北門などの遺跡が残る。

釣り人のいる橋の下は
レストランが並ぶ

ここに世界最古の鉄の
   くさび挟まれてい

アナトリア高原ある遺跡の数々

石灰岩に流れる湯・温泉池

コリント式の円柱が並ぶ
  ラヤヌス神殿

8、アンカラ(220km)〜サフランボル(395km)〜イスタンブ−ル…2泊

 サフランボルはサフランの花の街、オスマン朝時代の古い木造建築の町並みが、世界遺産に指定されている。
サフランボルの伝統的民家は、季節によって‘夏の家’‘冬の家’と、住み分ける“都市型遊牧民”生活を可能にし
夏は標高600mの山の街に住み、冬は谷底にある旧市街で暮らし寒風を阻むと言う。
サフランボル観光後は、ブラク・メンジリス鍾乳洞へ、そしてイスタンブ−ルへ向かう。

テルメッソスは標高1,000mにあるアンタリア・ロ−マ時代の街跡。「トルコのマチュピチュ」とも呼ばれ、
アレキサンダ−大王をも撃退した堅固な城塞を持つ。5c頃から段々衰退していく。
山頂にある円形劇場、水道橋や古の街跡からは地中海も臨める。

エフェソスは紀元前10世紀に都市国家が起こり、各帝国から支配を受けながらも発展を続けて来た。
紀元前133年、ロ−マの属領となり全盛期を迎え、大都市へと発展していく。

紀元前3世紀、丘の斜面を利用して作られた巨大な野外劇場は、その後、増改築が繰り返され、音響効果も抜群で、
現在でもコンサ−トに使用されている。

エフェソス遺跡・大理石通りは、かのアントニオとクレオパトラも歩いた?とも、言われる通り、無造作に並ぶ大理石の
石柱・レリ−フの傍を、クレオパトラの映画のシ−ンを思い巡らし、歴史を実感した。

2、イスタンブ−ル〜トロイ遺跡(345km)〜アイワルク(150km)へ・・・1泊

世界で一番小さな中海の“マルマラ海”(=大理石)沿いに走り、 途中フェリ−でダ−ダネルス(=風の強い街)海峡をヨーロパ側からアジア側へと渡り、トロイ遺跡へ向かう。

トロイ遺跡は、紀元前3000年頃〜西暦500年の間に9つの都市が興亡を繰り返えされ繁栄した街。長い間伝説上の都市として信じられていたが、1873年、ギリシャの詩人”ホメロス“の抒情詩「イリアス」に描かれた。
トロイ戦争の場面を信じた、ドイツ人ハインリヒ・シュリ−マンによって発掘された。

ハットウシャ遺跡の入口を入ると
岩に刻まれた数々のレリ−フが並ぶ

街から山頂の劇場跡まで
 1時間の軽登山

海底には沈んだ都市の
石段・住まいの様子も見られる

大理石通りに並ぶ   レリ−フ

エフェソス都市遺跡・大理石通り

ふしぎの国トルコ 歴史学びの旅

カッパドキア地方・ロ−ズバレ−の奇岩群を照らす夕陽

旅程:関西空港2355発→ド−ハ410着・750発→イスタンブ−ル1205

    イスタンブ−ル発1945発→ド−ハ020着・130発→関西空港1640

旅のル−ト:イスタンブ−ル@泊・・・トロイ→アイワルク@泊・・・ベルガマ・・・エフェソス→クシャダス@泊

→バムッカレ@泊・・・ケコワ・・・ミュラ→アンタルヤA泊・・・コンヤ→カッパドキア地方・ネプシェヒルA泊

・・・ハットウシャ→アンカラ@泊・・・サフランボル→イスタンブ−ルA泊

201110121025

1、イスタンブ-1230到着後市内観光

イスタンブールは、アジアとヨ−ロッパに跨るトルコ最大の大都市。(全人口7,400/イスタンブ-1,100万人)
先ず、世界で唯一6本のミナレットを持ち、オスマン帝国の栄華を伝えるイスラム教のブル−モスク、そして、
ギリシャ正教の総本山として建造されたアヤソフィアを訪れた。

アヤソフィアの聖堂は、360年ロ−マ帝国により建造された。以後暴動・地震などで焼失、再建を経て、
537年ギリシャ正教の総本山となった。その後も様々な変遷を受け、1453年ビサンチン帝国がオスマントルコに
征服されると、ギリシャア正教からイスラム教のモスクとして、全く異なる宗教の聖堂へと改修が加えられた。
一つの同じ建物が、皇帝の住まいからモスクに、更に、1923年トルコ共和国成立後は博物館として
公開され、
トルコの複雑な歴史変遷を物語っているようだ。

メブラ−ナの7つの格言

寛容・平等・忍耐

アナトリア文明博物館に並ぶ・展示品

山からサフランボルの街を臨む

アタチュルク廟

ハットウシャの村

岩窟墓が並ぶ

ドルマバフチェ宮殿から

車窓からトルコ富士の見える風景

賑やかなグランドバザ-ル

座席の石段は崩れたまま!!

クレオパトラ・アントニオも
かって歩いた通り?

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